[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私の父はしがない町道場の師範だったが、それには勿体無いほど強かった。
昔の知り合いのおかげだと笑っていたが、けれど優しく柔和な外見はちっとも強そうではなく数少ない門下生のみならず誰からも好かれているような人だった。
その温かな膝の上が大好きだった私はよくよじ登っては母に叱られたことを覚えている。
私を叱るのは、物静かだがこの道場を継ぐひとり子の私に大層厳しかった母だ。
父に叱られた記憶はほとんどなく数少ないそれも本当に危ないことや悪いことをやったときだけ、噛んで含めるように言われるだけできっと言う通りにしようと思ったものだった。
その父が一度だけひどく声を荒げたことがあった。
あれは、三つになるかならずやの歳でひとりでは入ってはいけないといわれていた父の部屋にこっそり入り込んだ時のことだった。
父の部屋には難しい本などが沢山あってまだほんの小さな子供だった私にはそれがとても魅力的に見えた。
いつも父の膝に座りながら眺めるそれらをひとりでも見てみたいという好奇心に抗えず入り込んだそこで、父の文机の上に飾り気の無いけれど光沢のある濃紺の刀袋の上にそっと置かれている一振りの木刀があった。
柄に文字が彫ってある以外は普通の木刀と同じで使い込んであるようなのに光沢があって綺麗だとさえ思った。
父が手ずから手入れを行っていたのだろう。
私は好奇心の命ずるままに手を伸ばしてそれに触れようとした。
そして背後からひどく怒鳴られたのだ。
振り向いた私の目に飛び込んだのは、かつて見たことも無い程険しい顔をした父だった。
触るなといったことを言っていたのだと思うが私はと言えば吃驚したのと怖いのとで萎縮してしまい、大声で泣きながら謝った。
父がこんなに怒るなんて自分がとても悪い子で父に嫌われてしまったのかと思ったのだ。
謝りながら嫌いにならないでと繰り返す私を抱き上げ、これはとても大切な物だからひとりで勝手に入って触らないようにと言った。私が泣きながら頷くと怒鳴ってごめんね、驚いたねと少し困ったようないつもの笑顔で嫌いになんてならないよと言ってくれたのだ。
安心した私はわんわん泣いて父を困らせたのだが、その後父の部屋にはひとりでは全く寄り付かなくなった。
父もあの木刀を放っておくようなことはなくなったのだろうと思う。
そしてその時以来、父は前にも増して優しく笑っているようになったのだ。
その数年後、父は病に倒れた。
まだ十に間のあった私には詳しい病状などは分からないながら母や父の姉夫婦が夜中に深刻そうに話しているのを見て父がいなくなるかもしれないという漠然とした恐怖に駆られていた。
そして結果的にその直感は正しかったといえる。
暫く入院していた父の元へは色々な人が見舞いに訪れていた。
私が幼い頃からたまに家に遊びに来ることがあった、どんな関係なのか父より少し歳下の私から見ればお姉さんといえるような女性、いつも一緒にいた白くて大きな犬・・と果たして呼んでいいのか分からないようなもの。
そして父よりは年嵩の髪の長い優しげな顔立ちの男や連れの不思議な生物。
父が昔世話になったのだと言う老女や、おそらく男性、だと思われる華やかな着物のおねえさんたち。
黒い制服の男たちが数人で訪れることもあった。
それは父の姉の伴侶の部下たちで、そして私はその誰からもとても可愛がられた記憶がある。
父は見舞い客に対していつもとても嬉しそうに接していた。
すぐに元気になるからと言って。
けれど日に日に痩せ衰えていく姿はその言葉を裏切っていて、私は怖くて片時も父の傍を離れたくなかった。
面会時間が終わり家に帰るのだと言われると泣いて嫌だと駄々を捏ねた。
その私を宥めたのは父だった。
また明日おいでと頭を撫でてくれると約束だと指切りをして。
私はその約束を必ずと念を押して母や伯母と道場に戻った。
そうして翌朝病院で迎えてくれる父を見るとひどく安心したものだ。
やがて父は枕が上がらなくなり、ほぼ一日を眠って過ごすようになった。
母と、道場に泊まり込んでいた伯母や鴇色の髪のお姉さんはその頃から何かずっと話し合いをしているようだった。
というよりも子供の目から見てそれは、母がふたりに何かを願い出ているように。
そしてもう最期だと医者に告げられた日。
父の病室には母と私、伯母夫婦とお姉さんと白い大きな犬。
後年知ったことだが、父は延命処置を嫌いただ酸素マスクのみをつけた姿でそこには医師も看護師もいなかった。
母達は覚悟を決めて、静かに父を送ろうと考えていたのだ。
私はただ闇雲に恐怖に駆られ父が寝かされたベッドに張り付いてその目が開くのを只管待っていた。
そしてどういうことなのか良く分かってはいなくとも、それがもう無理であることを心のどこかで知っていたのだ。
時の経過も分からぬ中、ばたばたと足音が聞こえ病室のドアががらりと開いた。
振り向くと、目に入ったのは白だった。
何度か瞬き、それが白い髪で白い着物を着た男だと分かった。
伯母とお姉さんがその人に駆け寄り、何事かを言うと男は頷いてつかつかと父のベッドに歩み寄った。
呆然としていた私の肩を母が引き、今まで私の場所だったそこをその男に譲る。
彼は私や母には目もくれずに痛いような表情でただ父だけを見ていた。
そして私は気付いた。
ちょうど私の目線の高さ。
男の腰にあるのは、いつか見たあの木刀と同じもの。
私は余計に怖くなってしまった。
彼が父を連れて行ってしまうように思えて。
父の傍を離れたくなかった。
けれど母は私を押さえたままそっと離れてしまう。振り払って駆け寄ることすら出来ないまま。
「新八」
白い男は父の上に覆いかぶさるようにして父の名を呼んだ。
痩せて白い手を大切なもののようにそっと取って。
無駄なのに、と思う。
私がいくら呼んでも父は目を開かなかったのに。
「新八」
震えるような小さな声が再度父の名を呼ぶ。
そして私は見た。父の黒い髪が男のほうに傾き、その手がそっと握られるのを。
ぎんさん、と聞こえたような気がするのは随分久しぶりに思える父の声。
掠れて小さなその声が、私の知らない男の名を呼ぶのはとてつもなく不安だった。
その名が私の名と同じであることも。
いつものように私の名を呼んで欲しかった。
その場は私の物であると分からせて欲しかったのに。
続けて聞こえたのは男の応え。それは濡れて震えているようだった。
母の手が痛いほど私の肩を掴んでいる。
それだから私は泣くことも出来ずその男の横顔をただじっと見つめていた。
やがて父が私と母を呼び、呼ばれたことに安堵した私が駆け寄ろうとしたところに続いたのは部屋を出るよう請う父の声。
母の手は一瞬震え、私はよくわからないながらも信じられない思いで男と父を見比べた。
これで最後になってしまうと悟ってしまったから。
呆然とする私を伯母の手に委ね、母はその男にそっと近づいた。
何かを告げると男は驚いたように振り返り、けれどすぐに頷いて父へと顔を戻す。
ありがとう、という声に母は首を振っていた。
私はそれを病室の外に出る伯母に連れられながら見た。
振り向いた母の顔は、凛としていつにも増して美しかった。
その後ろ、父の姿を私は目に焼き付けた。
それがきっと最後だと悟っていたのだ。
そして、男と父の姿がとても綺麗だということにその時初めて気付いたのだ。
部屋の外、気が緩んだ私は母の膝に縋り眠っていたのだろう。
突然何かを叩きつけるような大きな音で目が覚めた。
何度か続くそれは明らかに父の病室からのもので、それと気が付いたとき私は漠然とした恐怖を覚えた。
振り払えるものではない、絶対の恐怖。
息を呑んだ母は私を抱きしめて膝から崩れ落ち、その肩を抱くようにして泣く伯母が肩越しに見えた。
伯父とお姉さんは即座に病室に飛び込み、しばらくは怒鳴り声や物音が聞こえていたがやがてはそれも静かになった。
何か恐ろしいことが起こったという事は理解した。
母にしがみ付いていた私はその後のことを良く覚えていない。
ただ周りがばたばたと忙しなく動いていて、私は誰かに連れられて酸素マスクをはずされた父に会った。
呼んでも返事は無く触れた手から温もりが消えていくのがひどく悲しかったことを覚えている。
ただふと気がついた時には銀さんと呼ばれたあの白い人はどこにも見当たらなかった。
その後の通夜も葬式でもたくさんの人が泣いていたけれどそこでも姿を見た記憶は無い。
幾日か経って彼が誰だったのかを母や伯母に尋ねたが明確な答えは返ってこなかった。
ただ、葬式後暫くして鴇色の髪の人が道場を去る時に少しだけ聞いた。
父と彼女と白い犬と、それからあの人は家族のようだったのだと。
それから何年もして母も亡くし名実共にこの道場の主となった私は父母の遺品を整理するうち、件の木刀を見つけた。
手入れが行き届いたそれは父の亡くなった後も母か伯母か・・・誰かの手にかかっていたのは間違いない。
あの白い男が父にとってどれほどの人なのかは私にはいまだにわからない。
父の亡くなったあの時。母が父の最期を看取るように彼に言ったのだろうとは長じて後思い至ったが、私はどうしても納得がいかなかった。
傍にいるべきは私と母、伯母達であっていきなり現れたあの男では決して無いのだと。
そのことを母に伝えると、母は笑った。
わたしは最期にあの人の望みを叶えたのだと言って。
そして毎年父の命日に墓参りに行くと、必ず私たちの前に人がいた痕跡があった。
例えば、団子が一串と串だけが一本、数個入りであろう包みの中のお饅頭ひとつ、水羊羹が半分、水菓子、干菓子、クッキーやチョコレートだったこともある。
すべて手を付けられた後のもので。
お腹がすいた人がいたのかと私がそれを指差して笑うと母も伯母も泣きそうに笑って、今思い当たるのはあの白い人だ。
父と一緒にお茶をしたのだろうか。
父は笑っていたろうか。
きっと笑っていたろう。
そうしてあの人も。
笑って笑って。涙が出るほど。
私は今。あの人に会って父の話をしてみたい。
私は父に似ていますか?
私の名をつけたのは母と伯母です。
それはあなたの名前を頂いたんでしょうか。
父さん。
あなたは幸せでしたか?
銀さん。
あなたも幸せですか?
終
娘の名前は『銀』です。